
| 2004年度 五十嵐 賢 の 山のたより |
足利武三氏追悼文:内田益充
足利武三先生を偲んで
九州山岳写真界の第一人者、足利武三先生が、去る10月10日急性心筋梗塞のため、ご逝去された。享年78歳の生涯であった。 福岡県北九州市にある皿倉山へ撮影に行かれたが、宿泊先のホテルで夜半に体調不良となり、搬送先の病院で治療の甲斐なくお亡くなりになられた。 先生は1926年2月14日台北市生まれ。福岡大学付属大壕高等学校在職中に、九州山岳界の先駆者のひとりである故立石敏雄氏のあとを継いで同校山岳部の顧問となった。生徒の登山指導のかたわら、山の朝夕の光景や四季の自然の美しさに魅せられ、山岳写真に興味を持つようになったという。 先生は、立石敏雄氏が主宰する「しんつくし山岳会」に所属しておられたが、のちに山岳写真の会である福岡山岳写真グループの代表を務められ、同会のメンバーらとともに山と渓谷社の山岳写真月例コンテストで競った。 当時の審査員は、日本山岳写真集団の白籏史朗、三宅修、山下喜一郎、横山宏の諸先生方で、日本全国からアマチュア写真界の強者が応募していた。 78年に「落日の黒髪山」で念願の山岳写真月例コンテスト年度賞を受賞、それを機会に教師生活に終止符を打ち、山岳写真の道に専念した。 山と渓谷社からは、写真集『阿蘇・九重・祖母』、『霧島連峰と屋久島の山』、『九重山』などを出版し、そのほかにも多くのガイドブックを同社や他社から出版されている。92年に手掛けた山と渓谷社の『九州百名山』は、九州の岳人や写真家に大きな基盤と道筋を残された。この本が縁で共著者の福岡の五十嵐賢氏、井上晉氏、大分の藤田晴一氏、熊本の吉川満氏など現在も第一線で活躍されている。また、分県登山ガイド『佐賀県の山』の著者である故柴田芳夫氏とツネ子様ご夫妻は、日本百名山を完登された登山家で、先生の本のモデルとしてたびたび同行された、親しいご友人である。 私と先生との出会いは、福岡山岳写真グループのメンバーの一人が私の高校山岳部の顧問であったことから、高校卒業後に同会に入会したことがきっかけで、以来30年以上のお付き合いをさせていただいた。 先生との山行のなかでも、数多く通った九重山や阿蘇の撮影、大崩山でのビバークなど生涯忘れられない想い出である。 先生にはもう少し長生きしてほしかった。今はご冥福をお祈りしたい。先生はきっと私たちの行く末を見守ってくださっていることだろう。 独自の創造性と感性で山を撮影しておられた先生から、直接ご指導いただけたことは、きっと私の生涯の誇りとなるであろう。今後は先生のご遺志を受け継いで、頑張って行きたいと思っている。 |
●2004.5.22 ◆◆矢岳、わが秘密の名山◆◆ 僕にはどうしても登ってみたい山がいくつかある。矢岳もそのひとつ。あるとき、霧島連山の地図を見ていると新燃岳から高千穂河原の縦走路の東、大幡山の南、高千穂峰の北に囲まれた一帯はほぼ平坦で草原の記号や広葉樹林の記号が主で杉や桧の植林地を示す針葉樹林の記号はほとんどなく、素敵な林がひろがっている感じだ。もし、あってもこの付近に多い赤松の林ではないかと想像できる。実際、縦走してみると、新燃や中岳付近からさわやかな林が見えている。その横に3つのピークが望まれ、一番東のピークは矢岳と地図に載っている。しかし、山頂へのルートは載っておらず、先ほどの平坦な森に高千穂河原、新燃、東から登ってきた林道終点の3点を結ぶ点線が載っているだけ。はたして矢岳へのルートはあるのか、と前々から気になっていたことに答えを出してくれたのは宮崎市内の「川の道ガイド」の協力いただいた方だ。聞けば、炭化木や深い竪穴があったり、期待通りの素晴らしい林があるというのだ。それにもまして、「あそこはヤマツツジがきれいですよ」と聞いていた。 その矢岳に5月22日(土)に行くことに決めた。日帰りはもったいないので翌日は韓国の夜明けをミヤマキリシマの前景で撮るのを予定に加えた。 宮崎県の山の著者の緒方氏にルートを尋ねるとすぐに地図を送ってくれた。道もはっきりしていて、登りで1時間半ほどとのこと。緒方氏は翌23日に登る予定だという。同行したかったがそれでは韓国の朝の写真が撮れない。とにかく、単独行にしてAM7時半過ぎに家を出る。11時頃に麓に着けば1周3時間ほどらしいので撮影時間を加えてもそんなに無理な行程ではない。高速の宮原PA付近でケイタイがなる。相手は緒方氏、用件は仕事の予定だったが休みになったので今日、同行できますとのこと。渡りに船とはこのことだ。 彼の同行によって、こちらの不安はなくなり、ただついて歩けばいいという気楽な登山になった。そりゃー宮崎県の山の著者が同行してくれれば鬼に金棒、地獄に仏というもんだ。 道は期待通りの素晴らしい林がつづき、高崎川を渡って急坂になったが疎林にヤマツツジが姿を見せる。傾斜が緩くなるとヤマツツジは数を増し、背後に高千穂峰の稜線も見えてくる。ガスで山頂は望めないが火山特有のあの稜線はやっぱりいつ見てもうっとりしてしまう。お互いに撮影に適したヤマツツジを見つけては「こっちにもあるよ」とか「あっちにもあるよ」とか声をかけあったり、自慢しあったり。コースタイムの記録などとっくに忘れてしまっている。 緒方氏もこんなにベストに当たったのは初めてと興奮しているし、こっちは狂気にちかいはしゃぎぶりが自分でも分かるほど。予定より1時間以上遅れて山頂に着いたのは1時40分、ここも花盛り。僕の期待通りミヤマキリシマもある。ヤマツツジとミヤマキリシマは花期が重なっているので交雑しやすく、それがまたいろんな色合いの花を咲かせるのは雲仙の野岳の例を知っていたので期待していたのだ。下山にかかると期待通り、ヤマツツジ、ミヤマキリシマとさまざまな交雑種のきれいなこと。アケボノツツジにちかいもの、真紅のもの、葉はヤマツツジで花はミヤマキリシマ、またその逆。手前にヤマツツジ、奥にミヤマキリシマの群落など、など、言葉ではとても言い表わせず二人で「よかねー」、「きれいかねー」の声だけ。 竜王山まで来ると花はなくなり、20分ほどで下の林に入る前で涸れた沢に入る。上流に数分で炭化木に出会う。標識もなく、一人では無理かもしれんなーと自問する。 林に入っても涸れ沢が深く横切っているのでなかなか思った方向に進みにくく一人ではやや不安を感じていただろう。新燃の道を合わせてきれいな沢に沿って下っていくと大きな鹿が対岸を駆けていく。朝の予報に反して深く霧が立ち込め、新緑に染まって幽玄の森を歩く。やっぱり、一人より二人のほうが楽しさも2倍、不安は半分、緒方氏に感謝、感謝の気持ち。登山口に降りついたのは6時半。予想外の楽しい遅刻だった。帰りに教えてもらった紀乃島温泉は筌の口や長湯に似た泉質で豊富な架け流し、いいとこ見つけたー。 温泉に入り、小林で食事と買い物をしてえびのの駐車場に着いたのはすでに10時を過ぎていた。目覚ましを3時半に合わせて韓国の山頂に5時過ぎに立つ予定だったが、満足の疲れからか、おきて見るとすでに5時、いろいろ準備して山頂に立ったのは7時過ぎだった。 秘密にしとこうねッといいつつ、自慢もしたい |
●2004.5.1〜2 ◆◆笠松、霧の中へ◆◆ 連休中の遠出は大崩山系の鹿納、五葉と祖母傾山系の笠松山に行くつもりで準備にかかっていた。前者は古くなったアケボノツツジの撮影、後者は笠松山から傾山を、これもアケボノツツジを前景にして撮影したかった。先に鹿納、五葉、帰りに笠松に立ち寄るつもりでいた。5月1日の午前中のラジオ放送が終わって、お昼過ぎに出発の予定だったがわが事務所に立ち寄るといろいろと雑用が入ってきてなかなか自宅に帰れない。そんなとき、ネットの親分からケイタイ電話が入る。聞けば、親分の目指す山域もこちらの予定とほぼ同じ、しかし、親分は先に傾山、翌日に鹿納と夏木という。なぜか順番が逆だ。「一緒に行きませんか」の誘いに目的の山は譲れないが順番の変更に応じた。つまり、道中は一緒で登山口で別れ、下山して次の山の登山口まで同行して、また別の山、という変則的な山行になった。なんだか変だが夜の暇つぶしにはお互いひとりより楽しそうだ。親分が美女を仕入れてくるといってたが結局、いつものように振られたらしく僕の待つ九折の登山口に着いたのは9時半過ぎ。周りの車の連中はすでに寝入っている。11時頃まで談笑、空は曇っている。 翌朝、7時前に親分は三つ尾の難コース、こちらは九折のコースに分かれてお互いの健闘と無事を祈って出発。考えてみれば僕はこのコースの林道までは最近歩いておらず、来たときはいつも役場の人たちに林道の出合いまで車に乗せてもらっていた。あるいは三つ尾に直登して坊主尾根を目指していた。 九折川に沿って山腹を歩く道、芥神の滝、カンカケ谷、その上のロープで登る悪場、歩いたのはいつだったのだろう。 やっと林道に出て、この先は最近、何度も歩いているが面白くもない尾根の一本道、時折親分からケイタイがはいる。不思議なのは祖母山側では通じにくいが傾側ではなぜかよく通じるのだ。 九折越から縦走路を祖母側へ進むと上空は曇ってきて、ひゅうひゅうと風がなり、雨が近いと思われる。「まあ、今日は濡れてもともと」の気分できているのであせることもなくのんびり登っていく。祖母の小屋番が最近スズタケを切り分けしたらしく快適に歩けた。笠松近くの岩場で傾を撮ったが前景になるアケボノツツジはない。さらに近づいた岩場まで来ると見頃のアケボノツツジが現れたが今度は傾が霧の中。どーも、うまく行かんもんだ。 南を巻いて山頂の分岐に縦走者らしい男2、女1の三人組が食事中。挨拶して東笠松から先の登ると霧は小雨に変わる。霧のアケボノもなかなか風情があるがカメラを濡らすわけにもいかず早々にザックにしまう。こちらも食事をしようと風の当たらないところを探していると岩場の下が小さな洞窟になっていてそこで弁当を広げる。ふと前を見ると岩壁に二本の満開のヒカゲツツジが、 「しめたっ、」と食事を中断してカメラを取り出す。雨もまったく当たらない便利な所で僕を待っててくれたのかーと勝手な解釈、ほんと、だーれも気づいてくれる人はいないだろーなー。 食事が済んで雨も強くなってきたのであきらめようかと思ったがせっかくだからと雨具をつけて山頂へ。霧でかすんでいるがすぐ先にピンクが見える。歩を進めると見頃のアケボノツツジが、咲き始めのシャクナゲが、純白のムシカリが霧の中で輝いている。「待っててくれたのかー」といつもの独り言。撮影よりぼーっと花たちを眺めていた。そんな時、また親分からケイタイの音。「今どこ?」に「笠松」と答えると「まだ笠松」の返事。親分は難コースの坊主尾根を登ってもう待ち合わせの九折の小屋にいるというのだ。こちらはのんびりと花たちとの語らい、あちらは名うてのスピード狂、性格の違いはいかんともしがたいのだ。でも、やむなく下山にかかる。すこし、下ると地面はまったく濡れていない。どーも、山頂付近だけのようだが明日にかけて本降りになるという予報だ。 合流して、坊主尾根の難コースより歩きにくいと親分のいう九折コースを1時間40分で下山すると、前日泊の久留米の8人組は親分と逆コースで歩いたという。車座になって果物やお菓子をたいらげ、原尻の道の駅で二人で夕食、道が分からないかもっという親分の申し出で僕の車が先、親分が後につづく。前は後のスピードを気遣いつつ、後は前ののろのろにいらいらしつつ、九重のインターから高速にのるといつものように親分の車はあっという間に見えなくなってしまった。 翌日の鹿納、五葉は雨で中止。美女にも振られ雨にも降られ |
●2004.4.25 ◆◆アケボノツツジを求めて新百姓山、桧山へ◆◆ ふたつの祝い事が重なって娘夫婦から宿泊券のプレゼント、場所もこちらの気持ちを察してか九重のふもとに近い南小国の小田温泉という。今の九重はそれほど面白みはなくどーせならアケボノツツジを愛でに行こうと企んでいたところ、妻も「アケボノツツジならいいよ」の色よい返事。至れり尽くせりのいい旅館だったが、味はいまいち、っというよりこちらがいいとこの料理に慣れていないのか。まー、雰囲気はよかったなーという程度。 アケボノツツジなら祖母か大崩の山群、どこにしようかと迷っていたらネットの親分が新百姓、桧はいいよー」という僕の話を参考にして仲間を連れて行くという。本人も始めてというのも気になって「じゃー、そこにするか」と簡単に決定した。しかしいいとこの旅館は朝飯が遅い。頼み込んで7時40分の朝食が終わるとあわただしく宿を出る。親分のグループは5時に出発という情報が入っていたがどう転んでも登山口で合流は無理。 僕の予測では連中は8時半には現地に着くはずだがこちらは10時半頃になる。往復登山だからどこかで出会えるのは間違いないが。 瀬の本峠で見る阿蘇五岳はすこしかすんでいるが状態はいい。遅れついでに僕の好きなポイントに寄り道して撮影に30分ほど費やす。 杉が越には11時前、連中に連絡しようにもケイタイはつながらない。「のんびり行こうか」と歩きはじめる。この道はお社のすぐ上のピークからアケボノツツジに出会えるはずだが例年より緑が濃く、まったく見当たらない。「あの山にはアケボノは多いよ」などと大きな事をいってたのにアケボノがないでは沽券にかかわるので心中穏やかではない。 やっと、落ちている花びらを見つけ、さらに先に行くと終わりかけで元気のない花を見つけた。「あるにはある」でもこんなんじゃないよねーといいたいけどこの先の状態はつかめない。不安な気持ちで登っていくと親分からのケイタイがつながり少しはありそうだという。でも、やっぱり鮮やかな花を見せてあげたいなーと思ってたら今度はトトロちゃんからケイタイ、「きれいですよ」の声。新百姓はとばしてあけぼのの多い桧山へ急ぐ。 山頂直前でついにアケボノツツジ発見、それも見事な群落だ。これなら連中も満足してるにちがいなかろう。遅れるのも構わず、パチ、パチ、パチリ。「やっぱり、アケボノちゃんだ」などと独り言に妻が後ろでくすくす笑っている。 ずいぶん待たせてやっと合流、男は親分ひとりのハーレム状態と聞いていたが別に二人の男性を含めて7人だった。ずいぶん待たせたようだ。 帰りも同じ場所で撮影しながら下山、ここの林は何度来てもうつくしかーというほかはない。ブナも生き生きしており、ヒメシャラ、ナツツバキと混生した疎林は初心者向けムード派コースと勝手にいっている。 何度も休憩しながら素敵な森林浴を楽しんで杉が越へ戻る。今日は珍しく最終の下山者ではなく、まだ主の帰りを待っている車がいる。傾へ登ってる人だろうか。 4台に分かれて新緑に包まれゆく県道を下っていくと夕景の傾山が気にかかり、チョッと停まって2〜3枚撮影。山麓は新緑でも稜線は灰色、10日もすれば緑一色になるはずだ。木浦鉱山で名水を汲んでトトロちゃんのためにトトロの里に立ち寄って、原尻の滝へ。 道順を教えてあげた近道を親分の車はあっという間に見えなくなってしまった。 一生、忘れられないヨ、初めてのアケボノツツジとの出会い |
●2004.3.27 ◆◆お昼を過ぎて弥山岳◆◆ のんびりと朝寝を楽しんで階下に下りると黒ラブのあいちゃんが目を輝かせて待っている。休日を察知していて散歩に連れて行けの催促、逃げることはできない。雑木林のお気に入りの道をたっぷり2時間以上付き合わされてやっと解放されたのはお昼前。今日は山は無理かーとあきらめかけていたがあまりの天気の良さに誘われてあてもなく家を出る。一応、添田町の岩石山のサクラの咲きぐあいでも見に行こうか、と夜須高原から桂川町に下っていくと左手の小さい山の山腹のヤマザクラがちょうど見頃、急遽その山に変更する。右側の長谷山には何度か登ったがこちらの山には登ったことがない。行けば何とかなるだろうと麓に近づくとキャンプ場があり、予想通り遊歩道があり弥山岳登山口となっている。そういえば何かの折りに調べたことがある。 急な杉林を抜けるとかごたて峠にでる。参勤交代の籠を休めた峠らしいが山岳用語の一服たてると同義のたてるだろうか。次第に高度を増して古処から馬見の稜線、さらに英彦山も姿を現すと照葉樹の森に入り、左に進むと山頂と思しきピークには小さな石柱だけ、今度は展望所に出ると立派なあづまやがあり北側の展望がよく、福智山の稜線と眼下に筑豊の盆地を望む。この展望所の斜面にヤマザクラや純白の花はタムシバだろうか、たくさん咲いている。なんとなく来た道を振り返ると通行禁止の標識が立っている。そういえば一部、道が崩れていたなー。ということは北に下っている道がまともな道ということになる。キャンプ場へ戻れなかったら山頂へ引き返すつもりで下ってみるとすぐにキャンプ場への分岐に出る。この山の標識はすべてキャンプ場に向かっているようで、ちょうど扇の要の位置にあるのが戻りついて分かった。満開のサクラに囲まれた管理棟でしばらく休憩して車を発進させるとなにやら変な感触、いやーな気がして降りてみると後輪が見事にパンク。泥だらけになってタイヤ交換が終わって一息ついていると満開のサクラに夕陽が当たり、はらはらはらと輝きながら花びらが散っていく。 たまには一人ぼっちのお花見もいいもんだ
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●2004.3.13 ◆◆始動 福寿草の仰烏帽子山◆◆ 今年の1月、2月は雑用が多く、なんとなく山に行きそびれていた。しかし春めいてきた3月もボーっとしている訳にはいかない。そろそろ最盛期を迎える福寿草やマンサクを計画していたがいつものとおり前日の金曜日になっても目的の山が決まらない。とりあえず天草の念寿岳から龍が岳の縦走と仰烏帽子の福寿草を考えていたが福寿草なら行きたいという妻の申し出を受けて仰烏帽子に決定。実はこの山の福寿草を僕は知らない。以前、足利先生と南側の人吉から入り、一泊二日で全容の撮影地点を探したり、猿に囲まれたりハレー彗星を眺めたり、小指ほどのワラビをスーパーの袋に何杯分も採ったりと思い出は多いのだが北側の元井谷のコースは知らないこともあってこちらもウキウキ気分で出発した。土曜日のせいか思ったほど苦労せずに林道脇に駐車できた。 石灰岩の岩屑の多い涸谷に入ると妻がすぐにお目当ての福寿草を見つける。どーせ、先に行けばたくさんあることは分かっていても初物をカメラに収める。狭い谷がやや開けてきて日当たりがいい場所にはたくさん群生しており妻も僕も歓声をあげる。福寿草というと誰もが雪の中から顔を出した写真を撮りたがるが僕はあんまりそのへんのこだわりはない。むしろ点々と落ち葉の中に群生している木漏れ日の中の福寿草が好きなのだ。 分岐から右の沢に入ると期待通りの雰囲気になって沢には水流が現れた。鮮やかに苔むした石灰岩が朝の光線に輝いて桃源郷に迷い込んだのかと錯覚を覚えるほど。花のアップの写真もいいがこの雰囲気を写真で何とか写しだせないかと時間を費やす。僕は精密な花の写真よりそのポイントの雰囲気を写しだす作品を撮りたいのだ。 峠で南の仏石の道を合わせ植林地帯を抜けて山頂に立つ。撮影に時間がかかり過ぎたのが幸いしてなんとか山頂に食事の場所を確保できた。市房と白髪、霧島もよく見えていて雲の上に雲仙岳も姿を見せている。「来てよかったねー」と妻の声。 帰りは仏石に足を伸ばす。ここは植えられたように群落がひろがり撮影にも最適。そのあと仏石に登って山頂を撮影。福岡県の山を全部踏破したという宇美町の男性としばらく山談義。今度は対面の岩場に登って仏石の登山者を撮影しようと待っていたが取り付き地点でみんな引き返して結局、誰も登ってこない。この岩には人がいないと大きさがわからないのでねばってみたがやはりだめ、残念。 ネットの親分に「秘密の花園があるよ」と聞いていたが今日は帰りの光線でも撮っておきたかったので往復登山にして往路を戻る。しかし、朝の光のほうが断然よかった。でもたくさん撮って満足の下山路。 車に戻ると今日も最後、そのあと五木村の中心街の頭地に立ち寄る。名をはせた川辺川に沈む古い集落はなくなり、高台に新しい集落ができている。一角にある物産店で名物の豆腐の味噌漬けを買う。和製のチーズといわれているらしいがチーズよりよっぽどうまいのだ。半シャーベット状の時が酒の肴にもってこいで僕の水割りの最高のつまみ。 それにもうひとつ名水をっと思って水汲み場に着たがポリタンがないのに気がついた。 まー、いいだろう。最高の条件で福寿草にもめぐり合えたし、最高のつまみも仕入れたしこれ以上の贅沢はわがままっていうもんだろうと自分で勝手に納得して帰途に着く。 今年も始まる花のやまたび |
●2004.1.24 ◆◆ふるさと山紀行 雲仙岳◆◆ (日経新聞 1月24日(土) 夕刊掲載分)
平成2年11月上旬、登山の初心者二人を連れて雲仙三山の妙見岳、国見岳、普賢岳を三時間ほどかけて歩きめぐった。 妙見岳の山頂まで通じているロープウエイを使わず、自分の足で登る代わりに、下山後は島原の名所巡り、つまり浜の川湧水で名物の「寒ざらし」を賞味したり、美しい水路のある武家屋敷の散策を計画に加えた。 すでに紅葉は終わっていたが、ぐるりと波静かな海に囲まれた雲仙岳の山歩きと水の都・島原の散策は楽しい思い出となった。 それから十日ほど過ぎた11月17日、普賢岳の山頂付近から噴煙が上がった。周辺ではそれまで小規模な群発地震は何度もおきていたが、噴火はこれが始まりだった。 やがて成長し花弁のように広がった溶岩ドームの先端は、火口縁に張り出して時速100キロの火砕流となって崩落した。翌平成3年6月になると、消防団員・報道関係者など40人を超す犠牲者が、その数日後に200棟ちかい家屋が焼失・倒壊。さらに梅雨時の大雨が重なって土石流で150棟が激流に飲まれた。 9月にも火砕流で200棟以上が焼失・倒壊。その後も火砕流と土石流を繰り返した。平成7年になると、ようやく火山性地震はほぼおさまり、溶岩ドームの成長も止まった。翌平成8年5月に、この溶岩ドームは「平成新山」と命名された。 避難世帯二千、避難者七千二百、避難日数じつに千八百六十三日にわたり住民を苦しめた末、本体の普賢岳より127メートル高い1486メートルの新しい山が誕生したのだった。 雲仙岳は平成の噴火の200年ほど前にも噴火している。島原城下の背後にある眉山(まゆやま)が噴火に伴う地震で大崩落し、城下を数十メートル下に埋め尽くし、さらに海に飛び出し大津波が起こった。10メートルを超える大波が対岸の肥後(熊本県)に数度にわたって押し寄せたという。一連の地震と土石流、津波は。わが国災害史上最大のもので、「島原大変、肥後迷惑」といわれ、島原・肥後合わせて1万5千人の死者が出た。 その後、平成新山の誕生までの約二百年間、雲仙岳はほぼ平穏を保ち、美しい四季の自然とともに、古くは温泉岳と呼ばれたように豊富な温泉や湧水が人々の暮らしをうるおしてきた。 近年の噴火でマグマの供給が絶たれ、その下支えがなくなったとしたら、再び二百年前のような大地震が起こりうる懸念はぬぐいきれない。 今、有明海の洋上から雲仙岳を眺めると、火山性扇状地特有の長い裾野の中央にそびえる茶褐色をした溶岩ドームからわずかに数条の白煙が認められる。近く天然記念物となる平成新山はこの先何年、静かに眠り続けてくれるのだろうか。 二百年前の眉山の爪あと、今に見る小学校の残骸 あわれ
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●2004.1.21 ◆◆厳冬のマッキンレーへ旅立つ君へ◆◆ わが頼もしき後輩、栗秋正寿氏が1月24日 マッキンリーへ旅立ちます。
彼が母校で記念講演をしましたがその講演の要旨を私が担当しました。旅立ちのはなむけに贈ります。
五十嵐 賢
栗秋氏 講演要旨(2003.12.1)
アラスカ垂直と水平の旅
「あなたを生んでいないつもりで待っているから」と母に言われて旅立った極北の地アラスカ。目指すのは北米大陸の最高峰、マッキンリー。冬季のこの山は魔の山ともよばれその厳しさはエベレスト以上といわれている。冬の気象条件は風速が常時60メートル、時に100メートル、気温が摂氏マイナス60度から70度。しかし、この山を目指すのは「挑む」とか「征服する」というのではなく、そのスケールの大きさ、自然の美しさ、神々しいマッキンリーの山懐に抱かれて一体化したたい思いという。まさに旅である、垂直の。
しかし、生易しい旅ではない。ちなみに世界的登山者といわれていた植村直己氏は登頂には成功したが下山中に遭難死されている。このためマイナス50度の冷凍庫に1日中入る耐寒訓練や50キロの荷物を担いで高校(修猷館)から若杉山〜三郡山〜宝満山の縦走などの厳しいトレーニングに耐えての山旅。
彼が山の魅力に取り付かれたのは高校入学前の休暇中にみた「ラブストーリーを君に」という映画のラストシーンの西穂高岳の夕景という。その夕景を求めて修猷館から九州工業大の山岳部で実力を培ってきた。こうして冬季単独登頂第4登の栄光に輝く。
しかし、旅はこれだけだは終わらない。アラスカの大地に見せられて今度はアラスカ縦断の旅。1400キロをリアカーを引いて「できるだけゆっくり」、「身体全体でアラスカの大自然を感じ」、「人の好意は自然体で受け入れ」、「釣りを楽しむ」とモットーに水平の旅へ。
待っていたのはアラスカのシンボル、マッキンリーの冬季単独登頂者への敬意に満ちたまなざしと暖かいふれあい。ある町の小学校で講演を頼まれると次の街では歓迎の垂れ幕が下がり再び講演の依頼が舞い込んでくる。世界一遅い郵便配達を頼まれたり、マス釣り三昧や熊との遭遇の日々。そして水平の旅の終章は北極海のプルドーベイ。石油基地の私有地のため立ち入り禁止だが特別の配慮でジャパニーズカリブーを受け入れてくれたのだった。
先輩の皆さんまだまだ「ジャパニーズカリブー、栗秋正寿」の旅は続きます。ご期待とご声援を
現地、アラスカでは マサトシ君が ナオミ ウエムラの旅を 完結した といわれているそうです。
(追記 五十嵐) |
●2004.1.17 ◆◆ふるさと山紀行 背振山◆◆ (日経新聞 1月17日(土) 夕刊 掲載分) 玄界灘に向かい東西約60キロにわたり翼を広げたように横たわる脊振山地の主峰である。修験道の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が山頂付近で修法し、のちに山岳修験道場として脊振千坊と呼ばれるほど栄えてきた。 この山地のある九州北部は古くは末ら国(まつら)、伊都国(いと)、奴国(なこく)などと中国の後漢書に記されている。大陸につづく朝鮮半島に近く、いち早く水稲栽培や織物の技法、宗教、茶の栽培などの当時の先進文化を取り入れてきた。山名の由来も諸説あるが、その多くに大陸との深い結びつきを感じる。 国の中心を意味する朝鮮語ソウルからソフリ、セフリへと変わったという説、百済(くだら)からきた七福神のひとり弁才天の馬が背を振ったという説がある。 また、秦の始皇帝の命により、徐福が不老不死の薬草、千振(せんぶり)を山中に求めたからの説。臨済宗の開祖、栄西が宋から茶種を持ち帰り、山中に植えたところ、芽生えた木は、切ってもまたすぐ生えて、お茶が天から降ってくるのではないかということから「茶振山」の説もある。 茶祖と呼ばれた栄西と茶は、この山のキーワードで、佐賀県側の霊仙寺に「日本最初之茶樹栽培地」の碑、中腹に栄西禅師石像がある。福岡県側の山麓には「茶祖栄西頌徳碑」があり、わが国最初の禅寺、聖福寺でもお茶が栽培されてきた。 佐賀県側では国の中心を意味する「脊」をあて、「脊振」としているが、福岡県側では、どちらかといえば背中の「背」をあて「背振」とすることが多いようだ。これも、山名由来の諸説と結びつきがあるのだろうか。 福岡市の中心街から南に目をやると、二つの山が並んで見える。山頂に数本のアンテナをもつ、女性的な山が九千部(くせんぶ)山、その右側に男性的で特徴あるレーダードームを持つ山が脊振山。典型的な断層地形で福岡県側は急崖をなし、岩場も多く、渓流には多くの滝が懸かる。一方、佐賀県側から眺めると、なだらかな高原が広がり、山頂のドームがなければ、どこがそれかわからないほど茫漠としている。 両県から車道が通じていて、車で簡単に山頂に立てるが、ぜひ歩いて登りたいものだ。 山頂の2キロほど西に、大陸から来た人が故郷を望んで舞ったといわれる唐人の舞(とうじんのまい)と呼ばれる展望のよい岩場がある。今は山頂の巨大レーダーが玄界灘から東シナ海、朝鮮海峡方面へ監視の目を向けている。今も昔も大きな展望に変わりはないが、鉄条網が山頂に張り巡らされていて役の行者の石像も基地の中、最新のレーダー施設の中では修行もままならないだろう。 今年は文筆業で生計を立てていくか・・・と初夢の中
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